rink

La

20151115






   私の口には今、念願の穴ぽこが空いている。

   親知らずをようやく抜くことが出来た。

   去年の夏、一度は抜歯を決意し、

   大学病院で一ヶ月先の予約を取ったにもかかわらず、

   いざ治療台に座った時、

   恐怖と欲が混ざり合って抜歯への決意が揺らいでしまい、

   情けないのだがついには、泣き出してしまった。

   欲というのは、「いつかダメになった歯の代わりに移植できる」と

   前日に上司に言われて、

   抜くなんてもったいないと欲が出たのだ。

   あの時ほど自分の優柔不断さと貧乏性を自覚したことはない。


   あれだけ、迷って涙まで流したにもかかわらず、

   今年の抜歯への決意は固かったし、呆気なかった。

   一年積もり積もった親知らずの抜歯への恐怖とか痛みのイメージを

   裏切るほどのスピードで、それは、ぽこっっと抜けた。

   抜けたあとも、行き場のない恐怖とか興奮とかが

   どうしょうもないという感じで溢れてしまって

   治療台の上で変な笑いを堪えるのに必死だった。

   そんなところに先生が抜けた親知らずを見せてくれた。

   その親知らずは自分の予想をはるかに超えるデカさではないか。

   だってだって、親知らずなんていう名前には、

   密かさと、刹那な雰囲気が漂っているし、

   あんなに呆気なく抜けたのにもかかわらず、

   予想をはるかに裏切るほどの存在感だったのだ。

   ついに私は行き場を失った恐怖と興奮と達成感と

   裏切られた!という感情が入り混ざった

   よくわからない感覚を抑えられなくなって

   治療台の上で抜けた歯を手のひらにのせて

   お腹を抱えて笑いだしてしまった。

   本当におかしな人間だと自分でも思う。

   一本の歯に涙を流し、自己嫌悪に陥ったかと思えば、

   今年は一本の歯に大爆笑し、走り出したいくらいに興奮している。

   一週間たった今も、引き出しから歯の入った袋を取り出して

   しげしげと眺めているが、何故だか、飽きない。


   ああ、これは私の体の一部だったのかと、

   念願の穴ぽこを舌でなぞりながら、

   親の知らぬ間に、さらには私自身も知らぬ間に

   密かに、じんわりと生え伸びていた歯のことを考えたりして

   日曜の夕方を過ごしている。




20151114



  「一九八七年か、八年の夏だったと思う。」

  この手の書き口をいつも羨ましく思う。
 
   自分の場合一九八七年なんていうのは、

  まだ自分が人間という生き物かどうか自覚できてすらいない、赤ちゃんだった。

  過ぎ去った日々を懐かしみながら何かしらの文章を書くとするなら

  一九九六年でようやく10歳であり、

  いっちょまえに悩みなどを抱えていた年にはもう、

  二〇〇三年になっているではないか

  二〇〇〇年を超えてからもう十五年も経っているにもかかわらず、

  二〇〇〇という響きはには新しい時代の匂いがしみついている。

  「あれは、たしか、二〇〇三年の梅雨明けの頃だったか、

  同じクラスだったボーイフレンドと…」なんていう文章を書いたとしても、

  映像ははっきりとしたカラーで蘇り、懐かしいかんじが薄れてグッとこない。

  これが、もし一九九七年という響きと共に語られる記憶だったら

  その記憶はなんだか少し色あせ、

  ピントも曖昧でかっこいいのだろうなどと思って、謎にいつも悔しい。